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代表が語る tuc history

たちばな運輸株式会社と株式会社tucの代表がtucグループの今までを振り返り、
様々な思い出やこれからのtucグループについて語り合いました。

会長
はじまりは東映京都撮影所から。

たちばな運輸株式会社
代表取締役会長

吉田 敏雄

社長
はじまりは東映京都撮影所から。

株式会社tuc
代表取締役

吉田 知史

はじまりは東映京都撮影所から。

会長:

うちは元々親父が創業した「たちばな産業」という名前で始まって。東映撮影所のセットの解体・設営作業をしてたんです。私が10代くらいのときかなぁ。家業として東映撮影所を出入りしていることは知ってたけど仕事内容は知らんかったね。当時従業員300人程くらいおったって言ってたかなぁ。

そのときは市場でよく見かけるようなモートラ(別名:ターレ)が20台程並んでて、それを使ってセットを運んでた。それがどんどん撮影所外にも運ぶことが増えてきて、そうなるとトラックが必要やから、一般区域貨物自動車運送事業の免許をとって、トラックを使った運送事業が徐々に始まっていったんかな。

はじまりは東映京都撮影所から。

ミュージシャンの道を辞め、家業を継ぐことを決意。

会長:

当時僕は音楽を本業として活動してまして。21歳くらいまでかな。一応それで生計を立ててたんです。大阪の方は盛り上がっていて、名古屋でも2年くらい活動して。東京から引き抜きもあったけどバンドリーダーなので辞めるわけにもいかんくてね。しばらくそのまま活動してたけどこのままやってても先が見えへんなと思って辞めたんよ。それからはたまに弾き語りをする程度で、あとはほとんど遊んで暮らしてたね。

でもあるときふとこのままじゃあかんと思ってね。家の仕事をやると親父に手紙を書いたのよ。今まで親父が何やってるか知らんかったけどこれをきっかけに知ることになったね。今までトラックなんかもちろん乗ったことがなかったから、はじめはしんどかったなぁ。運送の仕事は朝も早くて、朝の5時半起きとか。ミュージシャンの頃は朝7時に寝てたりしたからね(笑)真逆の生活はきつかったなぁ。そのときはまだ21歳で、社長の息子やから「ボンボン」とか呼ばれて、血気盛んな従業員たちに揉まれて過ごしてたね。ただ自分がやると決めた以上はと思って、あと一人っ子やったこともあってなんとか頑張ってこなしてたわ。

ミュージシャンの道を辞め、家業を継ぐことを決意。

不便なこともあったが自由奔放さが楽しかった当時。

会長:

撮影は天候に左右されるから、雨で中止になろうもんなら役者はみんな遊びにでかけてたよ。当時大映通りにパチンコ屋が並んでいて、侍姿や町人姿でパチンコしてる役者もいたほど。今では考えられへんけどなぁ(笑)

社長:

日本のハリウッドやな(笑)

会長:

当時は長期の遠方でのロケも多かったから、北海道に行ったときなんか毎日温泉入って、ただ観光してたなぁ(笑)島での撮影のときなんかは、ギターを持っていって、役者さんと一緒に浜辺に座って歌を歌ったりしてね。楽しい思い出ばっかりやわ。

ただ、そういった仕事は楽しかったけど、映画関係だけでは仕事の浮き沈みが激しかったから、大手の運送会社から仕事を分けてもらいながら一般貨物輸送の仕事も始めて。トラックを買い足すお金もなかったから全部中古車やったわ。つらかったんは、冬にヒーターがないトラックで移動せなあかんかったことやね。あて毛布っていう引っ越しのときに家具に巻き付けるぼろぼろの毛布を体にぐるぐる巻きにしてなんとかやってたなぁ。ほんまにトラックを買うお金がなかったからね、ぽんこつ屋(故障車や老朽車を修理して一見新品らしい車にして売る商売のこと)の友達にずっと修理してもらってた。

社長:

「この間エンジン積み替えたとこやないか!」って言ってる爺さん(創業者)の指す「この間」が8年も経ってるっていう(笑)「8年も経ってるがな」って言ったら、「エンジンかかったら新車や!」言うてな(笑)

不便なこともあったが自由奔放さが楽しかった当時。

不便なこともあったが自由奔放さが楽しかった当時。

必要なものを削ることに、身の危険を感じた。

社長:

車に対してお金をかけなさすぎて、あの時もキツく怒られたんよな。新しく建設されるビルに搬入に行ったときに、その場所にオイルが漏れてしまってて。大手の新車のトラックと、うちみたいな小さい会社の中古車のトラックやったら絶対うちやろうってね。

会長:

そうそう。当時の社長(会長の父)はお金のかかることはとにかく嫌がってたからね。タイヤでも当時主流になりつつあったラジアルタイヤは使わずにダンプタイヤで通称ゲタっていう、溝が深いタイヤを使ってたんよ。溝が深いから持ちがええ言うて。ただダンプタイヤは横滑りしやすかった。26歳の立冬も過ぎた頃かな。死ぬ思いしたんよ。高速走ってたらね、前のトラックのブレーキランプがついて、動いてるか止まってるかがわかりにくかったんやけど実際は止まってて。事故渋滞やったんよね。そのとき急に止まろうとしたもんやからスリップして滑ってしまってね。隣の車線の車ともバックミラーすれすれでずーっと滑っていって、幸い前の車のギリギリ手前で止まったけどね。あのときは足がガタガタ震えたなぁ。それからは命には変えられへんからと反省して、ちゃんとするようになったね。

必要なものを削ることに、身の危険を感じた。

お菓子からくじらまで、運んだものは多種多様。

社長:

1980年~2000年くらいまではお菓子の運送の全盛期で、大手のお菓子会社の運送をほぼほぼ任されてたんよね。そのとき僕は小さかったけど、覚えてるのは親父が返品扱いになったお菓子を持って帰ってくれてたんやけど、食べたらなんか変な味がするっていう。なんともらったお菓子に、事故で横転したうちのトラックの油がちょっとかかったんやって後から聞いて、そら軽油の味するわって(笑)

会長:

くじらを運んでた時もあったなぁ。くじらの解体ショーを九州でやるから、和歌山で獲ったくじらを運んでくれって頼まれて。4トン車の6m弱の荷台にくじらを4~5頭、2トン車では1頭、長いからしっぽを折り曲げて載せてね(笑)中央市場で荷台いっぱいに氷を入れて走り出したんやけど、なんとイベントが急遽中止になったって連絡があって。1時間前に出発したトラックを追いかけて国道二号線を走ったんよ。当時携帯電話もなかったから追いかけるしかなくて。倉敷まで行ったけど追い付けずに帰ってきたわ(笑)当のトラックは現地で中止になったことを知って、持って帰って来るにもクジラが腐ったらあかんからその場で冷凍会社を探してまた氷を入れて京都まで持って帰ってきて。大変やったなぁ。

お菓子からくじらまで、運んだものは多種多様。

一緒にトラックに乗った、親子の思い出。

会長:

まだ社長が3歳か4歳の頃かな。トラックに乗せて鳥取まで連れていったことがあって。思い出すわ、「とっとり」って言われへんくて「こっとり」って言うてな(笑)昔からおしゃべりで朝まで寝んとずっとしゃべってたんよ。ほんで現地のお客さん先にも可愛がられて。帰りのラーメン屋さんでは大人が食べる量をぺろりと平らげてなぁ(笑)

社長:

ほとんど覚えてないけど、ちょっと僕が覚えてるんは雪の降った峠道の中を走ってて、帰りにはカニを買って帰ったことかなぁ。

会長:

そのカニ最終的にどうしたんやったかなぁ(笑)

一緒にトラックに乗った、親子の思い出。

元整備士の社長が入社して新しい風が吹き始める。

社長:

僕は元々整備士をしてて。浪人時代に親の会社にバイトには来てたんやけど、そのときは「若」とか「三代目」とか「ぼん」と呼ばれてて。

会長:

一緒やな(笑)

社長:

ほんで入社することになるんやけど、もう入社前から大変やったわ。4月1日から入社や言うてんのに前日に引っ越しの仕事で東京までトラックで行ってくれって言われて。トラック乗ったことないのに(笑)途中で車は壊れるわで大変でしたわ。整備士やったんで直せたからよかったですけど。

元整備士の社長が入社して新しい風が吹き始める。

会長:

けど、彼が経営するようになってから色々変わってきたね。昔はトラック買うにしても購入してから5年間乗って、それからが儲けという考え方やったけど、実際は5年以上経つと修理代が高くなる。彼が言うには5年目にして売ればそこそこの値段で売れるし、修理代もかからないと。反対に考え方を教わったよね。俺らの世代はごまかしごまかしでやることが多かったけど、それじゃだめということが勉強になった。

社長:

それが間違いだったわけじゃないやろうけど、だんだん時代とともにいつのまにか合わなくなってもうたんでしょうね。銀行さんとかにも話をしたら言われますよ、会長ってめっちゃ遊び人やったんですねって(笑)

会長:

遊んでても出来た時代なんかもなぁ。家で晩御飯も食べたことなかったしなぁ。芸能関係の人たちともよく遊びに行ってた。(当時の写真を見ながら)楽しかったなぁ。

社長:

僕も子供の頃からこういう経験めちゃめちゃしてたからね~。とある有名俳優さんからもらった犬を飼ってたし、思い出深いなぁ。あとはスキャンダルがあるとうちの前にも週刊誌の人らが来てたりしたな。ここに隠れてるんちゃうかって(笑)

元整備士の社長が入社して新しい風が吹き始める。

原点を見つめなおし、ロケバス事業を始めることに。

社長:

遡ると、じいさんが元々東映撮影所に車両(キャデラック)の持ち込みで、とある有名役者さんの専属運転手をしていたことがうちのルーツで(現在は違法)。当時はグリーンナンバーではなくて個人でやっているような形やったけど、それをちゃんと合法な形でロケバス事業として仕事にしていきたい。死んだじいさんができひんかったことってそこなんかなと思っていて。映画とかドラマとか、エンターテイメントがうちの原点なので、そこを今からもっともっと深めていきたいと思ってる。うちの社員も運送の仕事ももちろんちゃんとやってくれてますけど、それ以上に映画やドラマの仕事はやっぱり楽しそうにしてるのがわかるしね。

会長:

この仕事は好きな人は好きやもんね。待機時間が多いから待つのが嫌な人は向いてないかもしれへんけど(笑)

社長:

うちの社員はスタッフとしてだけでなくて実際にエキストラとして出演したりもしたね。僕もコンビニの配送員とリフトマンしたし。恐怖新聞というドラマではまさかの実名で(笑)

原点を見つめなおし、ロケバス事業を始めることに。

物だけでなく感動を届けられるようになりたい。

社長:

時代が進んで、トラックも自動運転になったりどんどん進化していって、運転自体の価値が下がってるかもしれんけど、実際に運ぶには人間が必要で。うちって元々エンターテイメントにずっと関わってきていて、それがうちのルーツで他所にはない強みなんで、「エンターテイメントを運ぶ」ということを軸にもっともっと深堀していきたい。

運ぶ領域も陸上にはこだわってなくて、いずれ空の領域まで行くと思ってます。僕の代で空まで行ければ、次の代では宇宙までっていう話にもなるかもしれないですし。そして、事業の領域も単なる活動屋(映画制作に携わる人)からもっと視野を広げて、うちのカラーであるユニークさや突拍子もないアイデアが加わることでより面白くなると思うんですよね。

これからもエンターテイメントに関わって、見る人に物だけでなく感動を届けられるような、そんな運送会社としてやっていきたいですね。

会長:

僕はもう今さら張り合う気もないし、社長に任しておいて大丈夫と思ってる。突っ走ってしまわんようにだめなところはだめと言ったり、気がついたらアドバイスしたりしながらやっていけたらなと思うね。

物だけでなく感動を届けられるようになりたい。

物だけでなく感動を届けられるようになりたい。

沿革

1950年頃 創業者吉田益雄が大型乗用車キャデラックを導入
東映の大スター片岡千恵蔵の専属運転手として撮影所に出入りする
1954年 「たちばな産業」のセット解体班として、東映京都撮影所内に沢山のオート三輪を走らせる
1955年 「たちばな産業株式会社」として法人登記
1958年 「たちばな運輸株式会社」に社名変更
運送免許取得(大陸第2475号)
1960年 オート三輪全盛期
1961年 現在地に本社事務所移転
1964年 現在地に倉庫(スレート200坪)・有蓋ガレージ(6台分)完成
1970年 隣接地約500坪を取得(所有総坪数1000坪)
クジラや鶏の輸送を行う。
1977年 所有地にスレート倉庫150坪増設
お菓子の配送を始める
1983年 塩谷取締役入社
1992年 取締役会の決議により代表取締役吉田敏雄に法人役員の変更
1993年 一般貨物自動車運送事業営業区域の拡張認可(隣接4府県)
ユニットバスの配送を始める
1995年 当社初めてとなる大型ウイング車を三菱ふそうより購入
1996年 サラリーマンをしていた現代表吉田知史が入社
2000年頃 お菓子の配送のピーク時代を迎える
2004年 自社倉庫にて3PL事業を開始
2005年 区画整理事業に伴う町名地番の変更
上桂樋ノ口町から桂上野今井町へ
2009年 初めてのホームページ公開
2011年 たちばな運輸でGマーク取得
自社倉庫での3PL事業の契約終了
2013年 利用運送事業として株式会社tucを設立し二社体制に
2015年 株式会社tucが一般貨物自動車運送事業の許可を受ける
2016年 株式会社tucが一般貸切旅客自動車運送事業の許可を受ける
2017年 吉田敏雄 国土交通省近畿運輸局長賞受賞
班制度開始
ホームページリニューアル
2016~2017年に渡り多くの社員が入れ替わる
2社の決算期変更9月末へ統一
2018年 ユーシン精機と取引開始し精密機械輸送が増える
株式会社tucでGマーク取得
吉田敏雄が平成30年自動車関係功労者国土交通大臣表彰受賞
たちばな運輸が吉田敏雄と吉田知史の二人代表制へ
2019年 映画ロケが急増。旅客輸送・倉庫案件が増加
60+1周年事業を行う
2020年 新型コロナウイルスが世界中に蔓延
ホームページリニューアル(現行)
ロケに付随するサービスが増加